映画「愛のむきだし」それは愛のだだもれ

今日、彼女に勧められていた映画「愛のむきだし」を観た。
ストーリーはこんな感じだ。主人公ユウ(西島隆弘)は幼い頃母を亡くし、その後父と二人きりの平穏な生活を送る。そこにカオリ(渡辺満起子)が突如現れ、神父となった父と強引に恋に落ちる。しかし奔放な彼女は父のもとから去っていく。その日から父は人が変わったようになり、ユウに罪の意識を植え付けさせようとする。しかし純粋なユウは罪はほとんどない、だから父に受け入れられたくて、盗撮という変態行為に走るのだが・・・。

という冒頭だけでも長々とした感じだが、シチュエーションコメディとしていて長さは感じない。それどころかスピード感あふれるテンポよい物語に吸い寄せられる。盗撮を拳法と一体化させた技はかなり笑えた。それ以外にもユウの親友になっていくそれぞれの不良キャラがいい人すぎるところとか、ああ、コメディなんだな、と安心して観られていた。

後半になっていくについれて(ユウが好きになるヨーコの登場(満島さおり))よってどんどん物語がカオスな方向になっていく。ネタバレはしたくないので書かないが、とにかく強烈な印象を与えるストーリーへと変化していく。


この映画を観ていて、終始思ったことは「愛とはなんだろう」ということであった。ユウはヨーコを観ると勃起してしまう。男なら女を観て勃起することは不自然なことではないが、この映画のユウはヨーコを観て初めて勃起するのだ。そのシーンも印象的なんだが。
愛=性という単純な図式に勃起を当てはめるユウの周りの新興宗教の人たち。そんな人たちが問う「愛」は訓練された感情運動に過ぎない。


この世界に蔓延する「愛」は安易に手に入る性愛なのかもしれない。しかしこの映画はその部分も触れながら、容易には達成できない「愛」を表現しようとしていると思った。入れ替え可能な「愛」は「愛」なのだろうか。そうではなく、入れ替え不可能な、他者の代理では不可能な唯一性を愛と呼ぶのではないだろうか。


人は人生に「あなたじゃなきゃダメだ」「あなたしかいない」と何人の人に言うのだろうか。自分のマリア様を見つけられる人はそうはいない。そんな残酷な日常の中で人は何を思うのだろう。そして「愛のむきだし」を観るのだ。



ちなみにこの映画の主題としては新興宗教が持つカルチャークラッシャーな側面も描いている。はっきり言ってその辺はちょっと時代遅れかなと思ったが、その新興宗教側の一人にコイケ(安藤サクラ)がいる。彼女も宗教者である父に性的な虐待など壮絶な過去を持ち、破壊と情欲を強烈に持つキャラクターとしてかかれている。俺は彼女の「自分以外はすべて狂ってしまえ、そうすれば自分だけは狂気の中で特別でいられる」という歪んだ感情に共感してしまった。だからラストでユウが狂ってしまった時に「あなただけは私と同じと思ったのに・・・」というのだろう。この感情は自分が狂気の世界で唯一の正常者であるという自意識からきているものだと思う。


この映画、マジでおすすめです。ぜひみんなも観てね。

http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/4682/43268223
http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20091230/1262176887