宇野常寛 「ゼロ年代の想像力」 感想 破壊と創造

2008年の著書「ゼロ年代の想像力」宇根常寛著を読んだ。
やっと読んだって感じだ。時間がかかってしまったのはこの本で紹介されているドラマとかを観てから読もうと思ったからだ。


この著書は希望書であり、絶望書である。


この本の概要は90年代のサブカルチャーゼロ年代サブカルチャーの質の違いを浮き彫りにして、90年代の「古い想像力」からゼロ年代の「新しい想像力」を描いている。

例えば90年代のエヴァからゼロ年代の「木更津キャッツアイ」への変化。宮台真司の言う大きな物語の消失で見失ったアイデンティティから、ポストモダン的状況に置ける島宇宙化における小さな物語の紬だしへと物語は変わっていった。

これは大きな物語がなくなったからと言って「どうせこんな世界なんてなにもない」という引きこもりから、何も物語がないぶん自由だから「こんなにも実は世界は豊かである」という発見への前進である。と著者は言ってる。と思う。


色々なところでこの本は物議を醸し出しているが、構成や分析、知識が稚拙であるという理由でたたかれてたり、レイプファンタジーという言葉でAIRなどの作品を非難しているから一部の人間に猛烈に反発をくらったりしている。だからここではあえてこの本の欠点を書く必要は無いだろう。Google先生に聞けば山のように批判の文章は出てくる。


だからここではこの本の持つ強烈な光の部分に焦点を当てたい。著者は島宇宙化した価値観のぶつかりあいがこの世界を暴力で覆うとしていると書いている。その代表的な作品の例といして、デスノートライアーゲームをあげている。これらの作品群は価値観のゲームの勝者が社会を動かしている。これを決断主義的な動員ゲーム=バトルロワイアル状態としている。


ここでいう決断主義というのは「〜である、〜でない」という供依存的アイデンティティではなく、「〜した、〜する」という自己のキャラクター化である。90年代の引きこもり的感覚では生き残れないと悟った若者はサヴァイブするために「〜した、〜する」というアイデンティティを自己の中核としていく例えば「ドラゴン桜」とかが代表である。


しかしそのような暴力が覆う世界が正しいのだろうか?著者はそれにノーを答える。無根拠な小さな物語で成立する島宇宙同士がコミュニケーションをしていくしかないのではないだろうかと言う。

大きな物語は消滅した。しかし、身近な者同士のコミュニケーション、恋愛から友情へ、家族から疑似家族へという移行が日常に存在する物語を作り出し、そこに豊かさが生まれると言うのだ。


自分は直感的にこの考察は素晴らしいと思った。自分は90年代的厭世観で生きている。しかし、それは大きな物語を与えてくれないからといって甘えているだけだり、自分で見つける努力をすればいいだけの話なのだ。これには衝撃を受けた。


だが、それには一人では成し遂げられない。多くの人のコミュニケーションの上で成り立つものなのだ。人と人とのつながりが新しい物語を生み出していく。そしてそれは素晴らしく豊かなものである!我々が忘れていたことがこの本はゼロ年代的な鋭さで突いてくる。


しかし、冒頭で言ったとおり、この本は希望の書でもありながら、絶望の書でもある。なぜならコミュニケーションに依存する新しい世界は、コミュニケーションが上手くできない人たちにとってはそれこそ疎外されるからだ。この本にはそういう人たちがどう生きていけばいけばいいのか何も書いてない。また、高度なコミュニケーションが必要になればなるほど人は疲れてしまう。本当は何もしなくても承認されるような世界が人間にとっては楽なのだ。これは著書でも触れているが、「Always三丁目の夕日」がヒットを飛ばした理由の一つにもなっている。


コミュニケーションの渦からこぼれ落ちてしまうしまう人たちはどうしたらいいのだろうか?引きこもってもそれがアイデンティティとならない世界に彼らはどうしたらいいのだろうか。この本が絶望の書でもという理由がここにある。


総合的に読んで、この本は希望が満ちあふれていると言える。最近、希望の書を読んでなかった自分にはかなり新鮮に感じた。批評本であるが、アニメとか特撮とか漫画に興味がある人には読んでも間違いではないと思う。