セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史

前島賢さんの「セカイ系とは何か〜ポスト・エヴァのオタク史」を読んだ。

この本はよく本屋のポップとかでみられる「セカイ系」という一部の人にしかよく分からない言葉の歴史本だと思う。セカイ系という言葉がいつどこで生まれ、どのようにして今の使われ方になったのか、その持つ歴史性と意味を分かりやすく解説してくれている本である。

さて、この本を読んだ感想というか、なぜセカイ系という作品群がゼロ年代を席巻していったのか、自分なりの考えを書いてみようかと思う。

セカイ系を端的に表せば、キミとボク、その関係性によって世界が変わるという類の物語のことを指す。この本で代表的な作品をあげられているとすると「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」「最終兵器彼女」など。


そこには大きな意味での世界(社会情勢やその他の人間関係)は省かれていて、二人の関係とセカイが直結している。

こういう物語の構成は社会性が欠落している故に、感情移入が出来ないかどうかと言われればそうではない。逆にその方がリアルに心に響いたりするのだ。

なぜか

自分の仮説はこうである。90年代の後半からネット、携帯が急速に普及し、今いる自分の立ち位置というものが急速に五感を用いる社会性からディスプレイという長方形のユーザーインターフェースへと変わっていった。隣の隣人より、階下の家族よりネットから繋がる情報や人間関係の方が親和性が高まったのだ。
そこには世界中の情報が氾濫(しかしほとんど日本語圏だが)し、自分とセカイの構築関係が歪んだ形でダイレクトに吸収される。だから隣人よりも家族よりも北朝鮮の動向が気になるという人間も出てくるのだ。

そもそも同一性を失った後期近代化社会で、世界をより身近に感じるということが非常に難しくなってきている。大塚英志の言う大きな物語の終焉で、人は歴史的に物語を紡いでいくという行為が困難になった。そこに物語に「キミとボク」以外の世界(歴史、社会)を入れて構成していくと言うこと自体がリアリティがなくなったのだと思う。

あるいは宮台真司的に言えば、現代の若者の認知できる世界とは、自分と関わりのある人間以外はすべて風景であると。風景である世界は不要だが、ドラマチックな世界観を維持するためのセカイは必要であると。だから一対一の関係性以外の世界は排除されてしまう。まるでニュースサイトを閲覧するだけで世界が分かった気になるかのように。

自分はこの本に書かれているように第三世代オタクであるから、違和感なくセカイ系の物語を見れた。余計なもののない、単純にストーリーにはまれるからだ。



しかし、本当の意味で作品世界に没頭して衝撃を受けたかというとそうでもない。やはり自分には人間は一人や二人の関係性だけでは世界は動かないという現実感を持ち合わせてるからかもしれない。

ゼロ年代以降の社会は物々しい。世界では大きな戦争が二つも起こり、日本の不況はいっこうに脱せず、いがみ合いのある格差社会であり、いつ自分が貧困の危機に陥るか分からない。このような現実に、エッジのある若者は運動へと回帰しつつあるし、そうでない若者も上昇志向を持ったり、空気系アニメに逃避したりしている。

そういう意味では、もはやキミとボク、それがセカイというセカイ系の作品はニッチな作品群になっていくだろう。



本の書評を書こうと思ったが、全然脱線してごめんなさい。前島君とは年齢が一つ違いで、以前、NHKの番組で一度お会いしたことがあるので、本が出たことは純粋に嬉しいです。彼にはなんかオーラが出ていて、きっと大成するタイプだろうなぁなんて思っていました。
とにもかくにもこの本が売れますように。

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

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