理論的非モテと実践的非モテについて言いたいこと

「モテるってそんなに大事ですか?」

これは自分が十代最後の歳に全国放送で問うた議論だった。
そもそも最初から話をすると、自分は十代の頃「真剣十代しゃべり場」とかいう番組に出演していたことがあって、そこでディレクターと自分の題材を何をするかと言うときにこの話題になったのだ。

自分は周りの十代の子供たちが異性を意識し始めて、自分の好きだったこと、オタク的なこと、子供じみていたり中二病的な感性から離れていくことが非常に残念で無力感にうちひしぎられていた。異性にモテるために生き方変えるより、好きなことして生きてればいいじゃないか!と当時は思ったものだった。

当時はまだ非モテという言葉はまったく浸透していなく、もし非モテという言葉があったら、「非モテで何が悪い!」ってやってただろうね。

しかし、というかもちろんだがそんな考え方はその場では賛同が得られなかった。
誰もモテレースから降りることに対する疑問を持ち合わせていなかったのだ。同じメンバーでオタク男子がいたが、彼すらもまったく理解出来ないようであった。もちろんゲストで来たタレントもだ。

今考えると当たり前である。まず言葉がなさ過ぎた。時代が早すぎたのかもしれないが、とにかくなぜモテレースから降りることに価値があるのかという説明が上手くできなかった。今なら恋愛至上主義であるとか、恋愛資本主義であるとか説明する言葉があるが、当時はまだまだ90年代のトレンディードラマの残党的な感受性が強かったのだろう。モテる=強者であるという十代のメンタリティに訴えかけるのは非常に困難であった。最後は自分でも何を言いたいのか分からなくなるほどであった。とにかく、惨敗。

後に来たファンレターのようなものでも「石崎君は孤高の男子という感じで好感が持てます」みたいな勘違いな手紙ばかりで落胆したのであった。



さて、今非モテについて語るとすれば、当時から俺は理論的非モテであったと言える。つまり恋愛至上市議や恋愛資本主義のレースから降りることにより、より自分の人生を楽しめる(特に自分は変態でオタクだしね)ということが言いたいのだ。モテるということは他者の目線を常に気にしなければならない。それはとても窮屈なことだし、ペルソナを複数持つことにもなる。だいたい女の子の評価を気にしながら窮屈に生きてるやつって面白くないじゃん。そんなやつとは友達にもなりたくないわ。コアな世界に行けば行くほど女性はいない。でも自分の居場所はそこなんだと言えるくらいコアな人間になりたい。これが自分が思う理論的非モテである。

例えばスイーツ(笑)とか言われるような女の子に魅力があるか?その子に魅力があるとすれば、肉体的な性愛的な欲望である。歳とれば薄れちまうよ。今の男子の草食化といわれる問題には、魅力的(内面的意味で)女性がほとんどいないというのも起因しているように思われる。これほどまでに趣味趣向が量産されている時代に、求められる女性象は「一緒に居て面白い、楽しい」だろう。ファッション誌ばっかり読んでないで、ちっとは知的な活動しようぜ。アニメや漫画に出てくる女キャラはファッション誌なんか絶対読まないぞ。


で、実践的非モテというのは、本当はモテたいけど、あるいは他者の承認が欲しいけど得られない人たちのことである。こういう人たちは非モテSNSとかやるグループである。恋愛市場から弾かれるだろうから、みずから撤退するという態度だ。実践的非モテの人たちはコミュニケーション下手だからなんとなく分かってしまう。この手のネガティブな非モテルサンチマンになる可能性があり、俺からすれば人生もったいないって感じがしてしまう。

資本主義で例えるなら、貧乏だけど楽しくやろう、という態度と、俺はどうせ貧乏だからワープアみたいな差を感じる。気持ち一つ切り替えるだけで全然違う世界が見えるはずなんだが・・・。


そういえば、理論的非モテを率先してやっていた層といえば、ビュジュアル系やBLにはまる美女だったような。彼女らは率先してレースから降りることで自分の好きなことをやっている。もちろんTPOはわきまえているけどね。


とりあえず、今日は十代の俺にケリをつけた感じがした。また非モテについては書きたいことがあるのでまたの機会に。